速度の限界と言っても、短距離走の速度とマラソンの速度では当然限界が違います。マラソンでは、後半失速すると「スタミナ不足」とか「走り込みが足りない」などと片付けられることが多いのですが、話はそれほど単純ではありません。スローダウンにはいくつものメカニズムがあり、その原因により克服の仕方も当然変わってきます。
1.有酸素運動と無酸素運動
走行速度に応じて3つのゾーンに分類します。
図1において、Aは非常に低速で走っている場合で、「乳酸」(疲労物質のこと。筋肉痛などを誘引します。)がほとんど発生しません。空腹など別の要因がなければ、いつまでも走っていられる感覚のペースです。
Bは、乳酸が発生しているものの、乳酸除去能力が上回るため、体内にはほとんど蓄積されない場合です。Aの場合より若干呼吸が荒くなり、常時会話しながら走ったりするのは難しくなりますが、かなり長時間走り続けられるペースです。
Cでは、乳酸除去能力より発生量が上回ってしまいます。BとCの境界をATペースとかLTペースとかよく言われます。ここに達すると、乳酸を除去するために必要な酸素量に対して、十分な酸素を取り込めない状態になります。通常は速度の上昇に応じて心拍数も比例するように上昇するのですが、このポイントを超えると、心拍数の上昇が頭打ちになってきて、必要量の酸素が取り込めなくなります。いわゆる「無酸素運動」のゾーンに入ってくるわけです。無酸素というのは無呼吸という意味ではなく、「酸素摂取量<酸素消費量」となる状態のことです。
しかし、無酸素運動だから走れないというわけではありません。ここで、
酸素負債=酸素消費量−酸素摂取量
と定義します。人間は、ある一定のレベルまでは酸素負債に耐えられる能力を持っています。乳酸を蓄積できる容量を言ってもほぼ同義であることから、この能力を「乳酸耐性」と言うこともあります。速度を上げるほど酸素負債が増えますから、早い時間で限界に達します。つまり、Cのゾーンも2つに分けることができ、その境界は速度と距離により決まります。図2のように考えるとわかりやすいと思います。
一つ問題があります。それは乳酸耐性は個人差が大きく、かつその能力を測定するのも難しいということです。AとB、BとCの境界点は走っているときの感覚でだいたい分かるものですが、Cを2つに分ける点は容易にはわかりません。ゴール地点で限界に達するのが理想ですが、酸素負債を抑えすぎると「力を出し切れずに終わる」ことになり、逆にオーバーペースにより過剰な酸素負債となり、限界点に達した時点で「失速」することになります。また、Cのゾーンに達していないのに失速するのは別の要因によるので、単に「オーバーペース」で片付けるのは短絡的です。
2.グリコーゲンと脂肪
人間が運動するために必要なエネルギーは、「グリコーゲンの消費」および「脂肪の燃焼」でまかなわれます。2つの使い分けを簡単に言うと、グリコーゲンは大きな力を必要とする時に、少ない力を持続的に必要とする場合は脂肪の燃焼によりエネルギーを生成します。グリコーゲンの貯蔵量には限りがありますが、脂肪はマラソン程度の運動時間なら、事実上ほぼ無尽蔵にあると言えます。
それを前提に図3を見てみると、図1とよく似ていますが、やはりこれも3つのゾーンに分類します。
Dは非常に徒歩やゆっくりとしたジョグなど、負荷の低い運動をしている場合で、脂肪の燃焼だけでまかなうことができます。ただし、グリコーゲンは化学燃料、脂肪は炭火に例えることができ、脂肪も燃焼させるためには着火剤のようなものが必要です。そのため運動直後には一時的にグリコーゲンが消費され、脂肪が燃焼を始めるのに一定時間が必要と言われるのはこのためです。
Eは、脂肪の燃焼だけでは必要なエネルギーを生成できなくなり、並行してグリコーゲンを消費する速度です。また、Fは非常に速い速度でほとんどグリコーゲンだけに頼って走るゾーンです。前述したように、グリコーゲンの貯蔵量には限りがありますので、E以上のゾーンで走る限りは、速度と距離に応じた限界点が存在することになります。つまり先程と同様に、EとFをそれぞれ2つに分割し、図4のように考えるとわかりやすいでしょう。
Dのゾーンは非常に低い速度しか出せませんし、Fの速度ではとてもマラソンを走りきることはできないでしょう。したがって、記録を狙うマラソンレースでは必然的にEのゾーンで走ることになります。そのため、グリコーゲンの貯蔵量が少なかったり、グリコーゲンを大量に消費する速いペースで走ったりすると、グリコーゲンが枯渇し、「失速」することになります。ゴール地点で限界点に達するのが理想のペースということになりますが、貯蔵量もまた個人差や直前の食事などによる影響が大きく、自分の感覚ではわからないために、余裕があったのに突然失速したり、グリコーゲンを使い切らずに終わり、「力を出し切れなかった」ことになります。
3.「失速」の種類
ここまで読めばお分かりかと思いますが、同じ「失速」という点で、「1」と「2」は似ていますが、そのメカニズムは全く異なります。一言で「スタミナ不足」で片付けてはいけないというのはそういうことです。酸素負債による失速の場合は、ペースを幾分落とせば立ち直ることもありますが、グリコーゲンの枯渇の場合は、マラソンの距離では修正不能となります(特殊な例として、ウルトラマラソンなど、時間が非常に長い競技の場合は、途中でエネルギーを十分補給することで立ち直ることもあります)。
失速するかしないかの境界点は、図2のC1とC2の境界、図4のE1とE2の境界の2種類存在するわけですが(F1とF2の境界も存在しますが、マラソンではFゾーンで走ること自体が考えにくい)、この境界点の速度は一致するとは限りません。むしろ一致しないのがほとんどと言った方がいいでしょう。テレビのマラソン解説でもこの違いを明確に説明しているケースは稀です。しかし、この違いをしっかり理解しておかないと、何度走っても終盤失速とか、成功することはあるが走り終わってみないとわからない、ということになるわけです。
具体的な例で説明してみます。途中で苦しくなってペースダウンしたものの、落ち込みを最小限に防いでゴールできた場合は、図2のC2ゾーンで走っていて酸素負債が限界近くに達したため、ペースを落としてBゾーンで走ることにより乳酸をうまく除去できたためと考えられます。ここでペースの落とし方が足りずに、無理してC1のゾーンで走っていると、まだ酸素負債が発生しますから、限界点を超えて筋肉が耐えられなくなり、大失速ということになります。ここまで来ると筋肉がダメージを受けて修復不能となるわけです。
では、Bゾーンまで落とせば絶対大丈夫かというと、必ずしもそうではありません。失速の原因は乳酸だけではないからです。図4のE1ゾーンで走っていればグリコーゲンも最後までもってくれるのですが、E2で走っているとやがてグリコーゲンも枯渇し、再びスローダウンの地点が訪れます。こうなってしまうと、もはや修復は不能です。
もう一つの例を挙げてみます。非常に身体が軽く、中盤までは余裕たっぷりで走っていたのに、ある地点で突然の失速に見舞われた場合です。この選手の場合は、図2のBゾーンが非常に高い速度まで広がっていてハイペースへの順応性が高く、乳酸の蓄積が進んでいなかったのに対し、図4のF2寄りのE2ゾーンで走っていたためにグリコーゲンの消費は確実に進み、グリコーゲンが枯渇した時点で終わりというわけです。これは、トラック出身でマラソン経験の浅い男子選手などによく見られ、往々にしてオーバーペースの一言で片付けられてしまいます。しかし、原因はグリコーゲン不足、またはグリコーゲンの消費効率が悪いのですから、スピード練習を増やしてもそれほど効果はなく、もしかしたらコンディショニング次第で防げたかもしれません。
4.トレーニングとコンディショニングの目的
トレーニングの目的はA〜C、D〜Fのゾーンを引き上げることにあります。当然ながらどのゾーンを引き上げたいのかによってトレーニング方法も異なります。いろいろなトレーニングを組み合わせなければならないのは、各ゾーンを適切に引き上げる必要があるからです。
(1)LSD
市民ランナーにとっておなじみのトレーニングであるLSD(Long Slow Distance)ですが、速度的にはAゾーンとDゾーンに該当します。したがってAゾーンとDゾーンの上限速度を上げることはできても、酸素負債やグリコーゲン不足による失速の対策としては効果は薄いでしょう。前回のレースで失速したからスタミナをつけるために、LSDを多くして走行距離を増やしたという人は多いと思いますが、必ずしも正解とはいえません。
LSDが効果があるのは、まずランニング歴が浅い人が挙げられます。この人たちは、有酸素運動に慣れていないため、A・Dのレンジが低いばかりでなく、B・Eのレンジも非常に狭いため、すぐに限界が訪れます。かといってB・Eのレンジが狭いため、このゾーンでの練習が非常に困難です。そこでLSDを行うことで同時にB・Eゾーンも引き上げることができます。もっとも、この人たちはLSDをやらなくても毎日の歩く距離を増やしたり、自転車に乗ったり水泳をするなど、他のトレーニングをしても十分な効果が得られます。しかし、ここでクロストレーニングの有効性を過信してしまうと、後でレベルが上がっていった時に適切なトレーニングができなくなります。
ただし、熟練者であっても、休養期間を経てマラソントレーニングに入る前段階もB・Eゾーンが狭まっているため、本格的なトレーニングに入る前にLSDでじっくり距離を踏んでおくことは有効です。また、トラックシーズンからマラソンへの移行期の場合、トラック練習で乳酸耐性を高めるトレーニングを中心としてきているため、C1のレンジが非常に広くなっている一方でBは逆に狭まっている可能性があります。それをマラソン向けに矯正するためにも、一旦LSDを中心とした練習を一定期間行うことも必要と思われます。
(2)ペース走
ここで言うペース走とは、乳酸が発生する直前、つまりCゾーンに近いBゾーンでの速度で、持続的に走るトレーニングを言います。単純に一定のペースで走るのがペース走というわけではありません。
言うまでもなくペース走の目的はBゾーンの引き上げにあります。Bゾーンの上限が上がれば、ペースを上げても乳酸が蓄積しなくなるわけですから、走る上では非常に楽になります。しかし、図4を見ればわかるように、一定のペースで走っていても、距離によって斜線の部分(グリコーゲンが枯渇する臨界線)への到達度も違います。速度に応じて、この斜線に近い距離まで持続しなければ、グリコーゲンの消費を抑えるトレーニングとはなりません。
逆に、図2のCゾーンにそれほど近くない(余裕がある)速度でも、長い距離を走ればグリコーゲンの消費抑制には効果があるということです。簡単に言えば、10km〜20km程度の短い距離のペース走はBゾーンの引き上げ、30km〜40kmの長い距離のペース走はE1ゾーンの引き上げに寄与するということです。
(3)インターバル
Bゾーンで走っている限りは、達成可能な最高速度には到達しません。なぜなら、更に速度を上げて酸素負債状態(Cゾーン)になっても、速度に応じた一定の時間までは走れるからです。したがって、高いレベルになればなるほど、このゾーンを引き上げるトレーニングも必要となります。
インターバルとは緩急を繰り返すトレーニングで、疾走時(急)にはCゾーンで乳酸が蓄積し、休息時(緩)にはBゾーンへ落として乳酸を除去します。Cゾーンで持続的なトレーニングをすると、一定時間経過後にC2に達して運動不能となり、肉体的なダメージを負います(翌日以降のトレーニングに支障を来たします)。そこで、BとCを行ったり来たりすることで、Bゾーンを高めつつC1のレンジを拡大します。負荷を上げ下げするという点では、起伏を利用したクロスカントリーも同様の効果が期待できます。
グリコーゲンの方はどうかというと、疾走時にはグリコーゲンを大量に消費します。ペースにもよりますが、短い距離のインターバルトレーニングでは、図3のFゾーンに入ってきます。しかし、疾走時の総走行距離はそれほど多くない(1000m×10でも走行距離は10kmに過ぎない)ことから、グリコーゲンが枯渇するF2ゾーンまでにはなかなか到達しません。そのため、グリコーゲンの消費抑制効果はあまり期待できないものと思われます。大学駅伝などで活躍する学生選手はこういったスピード系のトレーニングが多く、20km位までの距離は非常に強いのですが、マラソンはなかなか走りきれないのもこうした理由によるのでしょう。
(4)高地トレーニング
低酸素状態に慣れることで酸素摂取効率を高め、走行速度に応じて平地に戻った時の有酸素運動域(Bゾーン)の拡大、乳酸耐性の向上、グリコーゲンの消費を抑える効果が期待できます。
高地トレーニングにはもう一つの重要な効果があります。平地より遅い速度でも平地と同程度の心肺機能の強化が期待できることから、足腰への負担が減るということです。しかし気をつけなければいけないのは、平地より遅い速度でトレーニングしているということはそれに見合った筋力しかつかないということになり、速い速度に対応できなくなる恐れがあることです。そのため、距離の短い競技にはあまり適していないと考えられます。マラソンの場合でも、脚に負荷をかけるためにも、起伏を利用したりショートインターバルを組み込んだりするといいでしょう。
一般の市民ランナーは、もちろん簡単に高地トレーニングなど行うことはできません。そこで、「マスクトレーニング」といい、マスクをして走るトレーニングで代用することがあります。呼吸をしにくくすることで低酸素状態を実現しています。
(5)早朝トレーニング
グリコーゲンの消費を抑えるには、図4のC1とC2の境界(斜線部)近くの練習が必要となりますが、それにはかなりの速度と長い距離が必要となります。しかし、この境界線はグリコーゲンが枯渇するラインですから、もともとグリコーゲンの少ない状態でトレーニングすれば、速度を抑え、それほど長い距離を走らずとも早く境界線近くに到達するはずです。
そこで、朝食前のグリコーゲンが少ない状態で走ることで、早く境界線近くに到達させ、自己防衛的に消費を抑えるようにしようという理屈です。ただし、朝食前は低血糖状態であり、身体も十分に目覚めていないので心臓への負担もあります。そういった危険も伴うことも認識しておかなければなりません。
(6)グリコーゲンの貯蔵
グリコーゲンが枯渇して失速するのなら、あらかじめ余分にグリコーゲンを蓄えておけばいいという発想です。図4の斜線をコンディショニングによって強制的に右側(高速度側)にシフトしようということです。
カーボローディングとは、高蛋白、低炭水化物の食事をし、F2ゾーンに到達する程度の強い負荷の練習(オールアウト)をし、グリコーゲンを一旦枯渇させます。その後高炭水化物の食事に帰ることで通常のグリコーゲン貯蔵限界を上回る貯蔵が可能となります。しかし、これにはレース直前に一旦オールアウトにする必要があり、レース当日になってもその疲労が残ったままの状態となりやすいことから、オールアウト状態は作らずにレース前3日位の間、高炭水化物の食事をする方法が一般的になっています。特に、F2ゾーンでなく、E2ゾーンでオールアウトさせた場合には、かなり長い距離を走ったことになり、3日程度では到底疲労は抜けないでしょう。
よくレース前日に「刺激を入れる」といって1000mとか2000mを1本走るという、実業団や学生の間では定番の調整法がありますが、ここでせっかく貯め込んだグリコーゲンをいくらか消費してしまっているということも認識しておく必要があります。スタート前の入念な「アップ」や「流し」についても同様です。
レース前の食事についても、スタートの3時間前、あるいは4時間前に食事を終えなければならないというのはトラックレースや短い距離のロードレースでは常識ですが、その間の時間にも刻々とグリコーゲンは減っています。短い距離ではその程度の減少は影響ありませんが、マラソンの場合は違います。そこで、食事をとった後も、胃腸に負担がかからないよう、時間をおきながら少しずつ高エネルギー食品を摂取するのが望ましいと思われます。簡単に食べられるものとして、おにぎりや大福餅、カステラ、バナナ、ゼリー飲料などがありますが、スタート時刻が近づくほど吸収の良い食品をとるとよいでしょう。
レース中の給水も重要です。エネルギーを調達しながら走ることで、グリコーゲンが枯渇する時間を延長させます。給水してもすぐにエネルギー化されるわけではありませんから、枯渇してしまってからでは手遅れです。レース前半から積極的に摂ったほうがようでしょう。